ユーディ・メニューイン(Yehudi Menuhin, 1916年4月22日ニューヨーク – 1999年3月12日ベルリン)はアメリカ合衆国出身のユダヤ系ヴァイオリン・ヴィオラ奏者、指揮者、音楽教師。年少の頃は演奏界における神童の象徴的な存在でもあった。
イギリスに帰化し、長年の多方面にわたる国際的な音楽活動に対してサーの勲位を授与され、さらに貴族の称号であるロードも授与された。爵位名は、メニューイン男爵(Baron Menuhin of Stoke d’Abernon。
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Yehudi Menuhin / ユーディ・メニューインの生い立ちと活動
ユダヤ人哲学者を父の子として生まれた。4歳からヴァイオリン教育を受ける。7歳でサンフランシスコ交響楽団と共演して初舞台を踏む。ルイス・パーシンガー(ルッジェーロ・リッチの恩師)に学んだ後、パリでジョルジュ・エネスコの、ドイツではアドルフ・ブッシュの薫陶を受ける。妹ヘプシバはピアニストで、しばしば兄妹で共演し、室内楽の録音を行った。
第二次世界大戦中は、他の多くのユダヤ系ヴァイオリニストと同じく、連合軍のために慰問活動に取り組んだ。1945年4月にはベンジャミン・ブリテンとともに、解放後のベルゲン・ベルゼン強制収容所において慰問演奏を開いている。
第二次大戦中、アメリカに亡命していたハンガリーの作曲家、ベラ・バルトークを深く尊敬し、貧困と病気に苦しむバルトークへの援助を兼ねたり、無伴奏ヴァイオリン・ソナタの作曲を依頼したりしている。バルトークはこれに応えて無伴奏ヴァイオリン・ソナタを作曲し、この作品をメニューインに献呈している。
1947年からドイツを再訪して、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーと共演した。メニューインは、「ヒトラーのドイツは滅びたのです」と言って、ドイツとの和解を呼びかけたが、彼のこうした姿勢はユダヤ人社会の憤激を買った。この為、ユダヤ系音楽家が支配的なアメリカ楽壇から事実上追放され、移住したイギリスを拠点に活動するようになる。
戦後間も無い1951年に、アメリカの親善大使として日本を訪れる。この初来日の際、当初はアメリカ人として日本に悪感情を持ち、日本の新聞記者に向かって、「ジャーナリストなら、真珠湾攻撃を知っていただろう?」と詰問したこともあった。しかし、この来日中、日本に対する感情が大きく変化し、大の親日家となった。後年、武満徹が、アンドレイ・タルコフスキーの死を悼んで作曲した弦楽合奏曲「ノスタルジア」を絶賛し、自らこの曲を演奏した。また、天皇家とも親交を持ち、皇后のピアノ伴奏でヴァイオリンを弾くなどしている。 この来日中に出会ったクツみがきの少年にバイオリンを贈ったという美談が朝日新聞に掲載されている。またこの創作童話が『少年とバイオリン~音楽の神様からの贈り物~』(滝一平作、宇野亜喜良画、國分紘子解説、ヤマハミュージックメディア)として、が発行されている。
ソ連のユダヤ系演奏家と親しい関係を結び、ダヴィッド・オイストラフの初訪米を実現する為に、国務省の友人に協力を依頼したり、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチが、その反体制的な姿勢からソ連当局から嫌がらせを受け、出国を妨害された際には、自らソ連当局に圧力をかけるなど、共産主義体制下のソ連音楽家を支援している。
戦後にヴァイオリニストとして名声の頂点をきわめる一方、第二次大戦中の過労が原因で身体の故障にさいなまれ、しかも少年時代の集中的でない音楽教育の結果、芸術的にも困難を抱えるようになった。これらの難局を切り抜けるために坐禅やヨーガ、菜食主義を実践し、壮年期になるまでソリストとしての活動に取り組んだ。
後半生ではヴァイオリニストとしての活動よりも、指揮や音楽教育に献身した。1962年にサリーにユーディ・メニューイン音楽学校を開設、またその頃に、カリフォルニア州ヌエヴァ・スクールにも新たな音楽カリキュラムを導入した。著名な門弟にナイジェル・ケネディやアテフ・ハリムがいる。
晩年にはクラシック以外の分野とも交流し、1980年代にジャズ・ヴァイオリニストのステファン・グラッペリのジャズ・アルバムの制作に参加、またシタール奏者ラヴィ・シャンカールと共演でその室内楽曲を録音した。
1985年にイギリスに帰化。1965年にすでに英国王室より叙勲されていたが、国籍変更により正式にサーの称号と「メニューイン男爵」を名乗ることが許される。1990年には長年の音楽活動に対して、グレン・グールド賞を授与された。
1999年に気管支炎の悪化によりベルリンで他界。82歳。
メニューインの死後、英国の王立音楽アカデミーにメニューイン音楽文庫 the Yehudi Menuhin Archive が開設された。